更新日:2022年10月6日

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4.エピソード

 

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【エピソードⅠ】 〈 関東大震災と本校 〉

【エピソードⅡ】 〈 出征遺家族等への鍼按奉仕 〉

【エピソードⅢ】 〈 県立移管の裏に 〉

【エピソードⅣ】 〈 旧校歌について 〉

【エピソードⅤ】 〈 点字さんの歌 〉

【エピソードⅥ】 〈 ヘレン・ケラーと平塚 〉

【エピソードⅦ】 〈 新幹線開業前の試乗体験 〉

【エピソードⅧ】 〈 追分地下道の完成 −生徒の交通安全を− 〉

【エピソードⅨ】 〈 本校、神奈川ゆめ国体で開会式をかざる 〉

【エピソードⅩ】 〈 全校生徒の人文字 百周年記念の航空写真撮影 〉

【エピソードⅩⅠ】 〈 盲学校小学部の児童の声が平塚駅構内放送に 〉

【エピソードⅩⅡ】 〈 学校名がバス停に! 〉

【エピソードⅩⅢ】 〈 令和とともに校舎強靭化 〉

 

 

 

【エピソード Ⅰ】〈 関東大震災と本校 〉 

 大正12年9月1日昼頃、関東南部を中心に大震災が発生した。当時本校は金目の私立育英学校の4教室を借用し校舎としていたが築23 年の校舎は全倒壊した。

 本校50年誌や「頌徳碑成るまで」によると、幸い生徒は全員運動場にいて無事だったが宮田校長は梁に挟まれ身動きできなくなり1回目の揺り返しでやっと抜け出したという。また理療科教員で後の第5代校長、寺田福太郎氏も校舎の下敷きになったが幸いテーブルの下に潜っていて無事に窓から屋根に出て助かったという。なお授業は金目の観音堂を借りて再開したが、これを機に本校の平塚移転が行われた。

 

 【エピソード Ⅱ】〈 出征遺家族等への鍼按奉仕 〉

 戦争中は「銃後の守り」ということばがさかんに使われ、学生の勤労奉仕や学徒動員も行われた。本校の「50 年誌」や当時の新聞によると本校の生徒たちも昭和14年頃から夏休みを中心に何班かに分かれて県下をまわり出征遺家族や相模原の陸軍病院で鍼按奉仕を行い感謝された。また生徒によっては自主的に夏季休暇中に鍼按で得た利益の一部を平塚署に託し陸軍に国防献金した。

以下、神奈川新聞昭和18 年9 月9 日の記事を掲載する。

 盲唖学生の遺家族鍼按慰問

 県立平塚盲唖学校では盲部生徒が夏季休暇中に愛甲郡各町村出征遺家族の慰問鍼按勤労奉仕に従事して多大の感謝を受けたが更に盲部生徒が三班に分れて南秦野町南秦野、北秦野村の出征遺家族慰問鍼按に従事することになった

 

 なお、戦争末期には海軍火薬廠のある大野町(現平塚市)や隣接の平塚市も度々米軍の空襲を受けた。現江南高校の敷地にあった本校も職員は交替で警備についた。時には生徒も駆り出され写真のように滑り台の上などで見張りをした。

 

盲唖学生の遺家族鍼按慰問

見張り

昭和19年3月4日高部屋村国民学校にての慰問

 

【エピソード Ⅲ】〈 県立移管の裏に 〉

 23年間の私立時代は財政的に非常に厳しい時代であった。授業料無料の慈善的教育事業として始まった学校で基本的には地元住民等の寄付金と補助金でまかなっていた。大正末期、県に盲学校設置の義務が課せられたが7年の猶予も認められた。昭和2 年から毎年県議会で賛同を得ていたが県立移管は遅々として進まず、昭和5 年から何度か平塚町長はじめ中郡26ヶ町村長連名で移管の陳情書を提出している。2年間の県立代用学校を経て移管が実現したのは昭和8年。新校舎として平塚高等女学校寄宿舎を増改築する予定での移管だった。ただ「頌徳碑成るまで」によると移管に際し、宮田等学校経営者に次のような厳しい条件が附せられた。

 1.備品費として3千5百円を寄附すること。

 2.1千坪の運動場を寄附すること。

 3.寄宿舎は前経営者において経営すること。

 4.私立時代の債務は県に於いて責任を負わず。

 このうち1の備品費は県立移管に協力した郡内町村と平塚市が負担、2ヶ年分納で解決。2の運動場は平塚市が寄附することになったが地主との交渉が難航し新校舎に移って1年後に校舎北側1千坪の土地を寄附された。

 問題は3の寄宿舎であるが「元来盲唖学校必須の設備たるは法令の定むるところで後援会が経営するが如きは全国に其の例を見ません」と当時の清水校長も回想で述べている通りであった。やむなく前校長宮田が新に後援会を組織し、新校舎に寄宿舎ができるまでの3年半を浅間下の旧学校寄宿舎を使用して経営し生徒を通わせた。また4の債務は移管前に五千円に達していて旧校舎の売却を当てても残る多額の借金は6人の経営者が分担償却した。県立後の清水校長をして「経営25年、而して最後に酬いられるものは債務の辯才であった」と嘆かせている。

 また寄宿舎建設にあたっては、当時県立移管運動を行っていた中郡内市町村組合立の奈珂中学校とも関わりをもつ。現在の秦野高校であるが県立移管の条件の1つに、何と一足先に県立となった盲唖学校の寄宿舎建設費用1万5千円を中地区の市町村に課したのである。相当の反発もあったが中地区にも県立中学をという住民の強い願いもあり平塚市が6千5百円、他町村が残りを分担することになる。しかし平塚市議会は承認せず暗礁に乗り上げてしまう。他にも講堂建設等種々の資金拠出があり、盲唖学校には千坪の運動場も寄附したばかりであった。地元県議の調停もあり平塚市は4千円の拠出、残りは有志が支払うことで決着した。そのため県立秦野中学となるのは予定より7ヶ月遅れの昭和10年11月となった。また盲唖学校の寄宿舎建設とはいえ、本校の後援会までも再度1千3百円の負担を強いられたのである。当時の学校行政の一端が伺われるできごとであった。これらのことは「頌徳碑成るまで」や「秦野高等学校史」に詳しい。

 

【エピソードⅣ】 〈旧校歌について〉

 旧校歌は私立中郡盲人学校時代につくられ、昭和7年校歌に制定された。この旧校歌については、作詞作曲を前年度の昭和6年から広く募集し、卒業生なども詞を応募したが、結局詞は山崎央氏のものが採用され、西条八十氏が補作した。この央氏は賞金で本校に授業開始と終わりにならす鐘を寄贈してくれたが、その鐘は現在も非常時用に職員室の一番前の手洗い台に置かれている。また作曲者の朝世氏からはていねいな礼状が届き現在校長室に保管されている。なお、時代に合わせ、昭和34年に新校歌になった。

「中郡盲人学校校歌」

作詞 山崎  央(なかば)

検閲 西条 八十 

作曲 山崎 朝世 

1.太平洋の荒波の 寄せて砕けて散るところ

     桃の花咲く平塚の 我が学び舎を君知るや

2.雨降利の峰は空高く 澄みて我等に教うなり

     君よ行手は光ぞと あゝ限りなき希望(のぞみ)かな

3.進む文化の潮流の 行手を照らす六つの星

     不断の努力たゆまずば 如何なる業(わざ)かならざらん

4.いざやわが友わが母校 十徳の道くもりなく

     永遠(とわ)に進まん光まで 生命(いのち)の国の光まで

校歌募集要項 

昭和6年2月に出された校歌募集要項

 

【エピソード Ⅴ】〈点字さんの歌〉

 昭和10 年代に寮歌を作った清水一郎先生は、遠足の際に子ども達が歌えるようにと「山道小道」や「野みち」などの歌も作られ、戦後にかけて学校生活に潤いを与えてくれたようです。また、次に示している「点字さんの歌」は、子ども達が楽しみながら点字を学べるようにと作られたものでもあり、当時の児童はこれを歌いながら点字に親しんだということです。

点字さんの歌(音声にリンク)(MP3:2,778KB)

1.ぽつぽつ 紙に 点を つき

  表も 裏も 美しく

  とおりを そろえて 字が 書ける

  ほんとに うれしい 点字さん

 

2.思った ことや 聞いた こと

  忘れぬように いつまでも

  しっかり 書いて おかれます

  ほんとに ありがとう 点字さん

 

3.毎日 学校の 勉強も

  点字の ご本を みな 読んで

  立派な 人に なりましょう

  ほんとに 大事な 点字さん

 

4.1,2,3,4,5,6、の

  点を じょうずに 組み合わせ

  どんな 言葉も すぐ 書ける

  ほんとに ゆかいな 点字さん

 

5.じょうぎに てんぴつ 点字盤

  みんな 仲良く 手を つなぎ

  一生 懸命 お勉強

  ほんとに 仲良し 点字さん

点字さん楽譜

 

【エピソード Ⅵ】〈ヘレン・ケラーと平塚〉

 ヘレン・ケラーは、戦前1回と戦後2回の3度来日した。1 回目の来日は昭和12 年4月だが、“平塚江南高校創立五十年史”によると「敷地続きの盲学校に立ち寄られ、本校講堂で万雷の拍手のもとに講演会が開催された。同じ女性として、三重苦を克服し、日本まで来られた遠来の女史に対し、講演会終了後も座を立つ者もなく、感激と興奮とに包まれた」とある。残念ながら本校の記録には資料が無く、卒業生も聞いた限り記憶にないとのことだった。

 戦後まもなく、2度目の来日の折り平塚に立ち寄った時の昭和23 年9月4日毎日新聞の記事を次に記す。

 平塚街道のケラー女史

 〝いつも希望を失わぬよう〟 慕い寄る盲唖の子等に

 箱根で休養し、3日朝再び上京したヘレン・ケラー女史を沿道に迎え、瞬時でも淑女である女史に接したいとの熱望から、県立平塚盲学校生徒200名と 平塚製作所(旧傷兵工場)代表らは、3日朝平塚市役所前国道に出迎え、8時45分3台のハイヤーをつらねて通過する女史を歓迎した。喜びにあふれた女史は車を止めて車外へ降り立ち、盲生徒代表藤沢トキ子さん(17)、ろう生徒代表安斎ミネ子さん(16)や義足、義手の工員代表から贈られた花束にほおずりしながら手をさしのべて歓喜に集い寄る盲ろうあの子供達と限りなき握手を交わしつつ再び 日本をおとずれることの出来た喜びと共に「あなた方はこれから先いろいろと苦難の道を歩まねばならないでしょうが、しっかりした信念のもとに政府と指導者を信頼して将来への明るい希望を失わないよう努力して下さい。私は皆さんの幸福を心から祈ります」と秘書トムソン嬢を通じ、田中本社員の通訳で激励、全校生が感激にふるえつつ集う女史歓迎の歌に送られ東京へ向かった。

 ヘレン・ケラーは1回目の来日で約3ヶ月、2回目は2ヶ月ほど滞在し全国各地を精力的に講演してまわったが、3回目の来日は75才になっており10日ほどで帰国された。

 50年以上前の上記記事のことを鮮明に覚えておられる本校同窓生が大勢おられ、本記念誌編集委員に熱く語ってくれた。

 

【エピソード Ⅶ】〈新幹線開業前の試乗体験〉

  東京オリンピック開催直前の昭和39 年10 月1日、“夢の超特急”である東海道新幹線が開通した。その開通前、本校児童生徒達が試乗に招待された。以下翌日の神奈川新聞に載った記事を紹介する

とてもいい感じ ━━ 盲児たち新幹線に乗る

        かなえられた〝夢〟 石田総裁のはからいで

  「ゴォーという音、それにふんわりとした感じがとてもいい」− 石田国鉄総裁のあたたかい招待で、二十日夢の超特急に試乗した県立平塚盲学校(平塚市中原下宿)の生徒達は窓ガラスやいすを手で廻しながら大喜びだった。同校には小学1 年から短大程度までの視力障害者百二十人が学んでいる。二宮校長は「社会性を育てる意味からも試運転期間中に試乗させて貰おう」とこの春申し込みをしたが何の返事もなく・・・あきらめはじめた。このことを同校PTA 会長の剣持さんが聞き、石田総裁と隣組であることから(注:国府津在住)直接総裁の自宅を訪れた。・・・営業開始も迫ったさる17 日学校に電話で待望の〝試乗許可〟の連絡があった。一度は諦めかけていただけに生徒らは歓声をあげて喜んだ。この日小田原駅に集合した全生徒百二十人と父兄ら約三百人は午前11 時42分同駅発の超特急に乗り込んだ。いくらか見える生徒は早速座席を動かしたりカーテンを引いたり、また全盲の生徒も窓ガラスや座席をなでまわしたりしてはしゃぎまわる。酒匂川を渡ってかつてのモデル線区に入ると超特急はぐんぐんスピードをあげる。「ただいま時速二百十キロになりました」のアナウンスがあるとみんな大喜び。・・・48 分で東京駅にすべり込みここで1 時間停車したがこの間に生徒らはサンドイッチの昼食を食べて遠足気分。午後1 時半折り返し、同2 時半無事に小田原駅に着いた。小学部の生徒らは「学校に帰ったら新幹線の絵を描きます」「新幹線に乗った詩を書きます」と楽しげ。高校3年生の田口一穂君(22)は「読んでもらった新聞やラジオで新幹線が完成したのを知りぜひ乗ってみたいと思いましたが皆さんの好意で実現してうれしい。景色は見えませんがスピード感は感じられます。楽しい思い出になりました」と話していた。

新幹線車中

 


【エピソード Ⅷ】〈 追分地下道の完成 −生徒の交通安全を− 〉

  昭和40 年代には生徒の安全対策上重要な設備がいろいろ作られた。43年に、本校の最寄りバス停である「六本」(現「共済病院前・総合公園西」)交差点に音声信号が設置された。続いて46年には近くの追分交差点に地下道が作られ、48年6月には国鉄平塚駅改修工事に伴い平塚駅にも点字ブロックが敷設された。

 以下、昭和46年6月29日に行われた追分地下道開通に関する翌30日付の神奈川新聞の記事を載せ当時をふり返ってみたい。

 スロープもあります =平塚・追分地下道が完成=地下中央部には噴水池

 県平塚土木事務所が昨年11月から建設していた平塚市立野町の追分交差点地下道工事がこのほど完成、29日午後3時から開通式が行われた。県が地下道を建設したのは初めてで、モデル地下道をめざしたものだけに施設は満点。付近住民から喜ばれている。

 同交差点は秦野市、伊勢原市両方面と平塚、国道1号などを結ぶ重要な場所。

 5差路と複雑なうえに、交通車両は1日2万4千台(日中14時間)、横断歩行者も1日約7千人。しかも周辺には平塚共済病院をはじめ、幼稚園、小、中、高校と県立ろう・盲学校などがあって、安全施設の確保が叫ばれていたもの。

 開通した地下歩道は7カ所に昇降口があり、うち3カ所が幅2.25㍍の階段、4カ所が幅1.5メートルのスロープ。階段とスロープが合流する地下通路は幅3メートル、いずれもすべり止めの特殊タイルが敷きつめられている。

 また、地下中央部は広さ75平方メートル、中心に5色に変化する立派な噴水池も設けられている。地下の壁はクリーム色で明るく、2百ルクスの照明がついている。総工費1億5千万円。

 開通式には津田知事など約2百人が出席、地下の明るさと広さや、スロープ歩道などのアイデアいっぱいの施設に感心していた。このほか県では、盲学校の生徒のために、昇降とも、足やツエの感触でわかる点字ブロックを、また地下内の壁にも方向を示す点字タイルが付けてあり、盲学校では近く歩行訓練を行う、という。

 ※ 地下中央の噴水は、夏は音も涼しげで、5色に変化する照明もきれいであったが、近年は節電節水のため池に蓋をして使用されていない。

 

【エピソード Ⅸ】〈本校、神奈川ゆめ国体で開会式をかざる〉

 平成10年(1998年)の国民体育大会が神奈川県で「神奈川ゆめ国体」として実施された。その後で行われた全国身体障害者スポーツ大会「ゆめ大会」の開会式には県内の3盲学校の小学部高学年から高等部普通科の生徒が合同して「海によせるうた」を演奏参加した。

 2年近くに及ぶ練習は、本校や横浜市立盲学校(現、横浜市立盲特別支援学校)に3校の児童・生徒が何度も集まって行われた。初めて手にする楽器もいくつかあり、指導にみえた声楽家の瀬尾先生から指導を受け、該当する学部の職員も戸惑いながらも一緒に練習を重ねた。

 リラックスして行った横浜国際競技場でのリハーサルを経て、おそろいのユニフォーム(黄色のトレーナーとグレンチェックのボトム)で臨んだ11月7日の本番では、皇太子殿下の前で堂々と演じることができた。 

 「海によせる歌」の一部です。

みみをすませてごらん しおさいがきこえる

よせてはかえし よせてはかえす うみのなみ

みみをすませてごらん ふかいうみなりが きこえる

やさしくくりかえす うみのつぶやき

もっとみみをすませてごらん

すると ほら うみが わたしたちに はなしかける

そこにすむ うおたちのことを むこうぎしのひとたちのことを

ここちよい そよかぜのことを ・・・・・・・・

 

横浜国際競技場

横浜国際競技場での練習風景

 

【エピソード Ⅹ】〈全校生徒の人文字 百周年記念の航空写真撮影〉

 本校創立100周年を記念してどのようなことを実施しようかと、校外・校内のいろいろな部署で話し合いが行われた。そうした中、児童・生徒にこの年月の重みを意識付けようという観点から神奈川県の「航空写真撮影事業」を利用して上空からの撮影を行った。

 下の写真は、平成21年に創立100 周年を迎える前年の平成20年(2008年)10月21日に撮影したものである。グランドがグレーの色をしているのは整備のために新しい砂を入れて間もないためである。ヘリコプターの高度が足りなかったためか、校舎や寄宿舎の全景がフレームに収まらなかったことが少々残念!

航空写真 

100の数字の形に、児童・生徒・職員が並んで撮影された

 

【エピソード ⅩⅠ】〈盲学校小学部の児童の声が平塚駅構内放送に〉

 平成24年から平塚駅にて「点字ブロックの上に自転車・バイクを置かないで」「駅ホームでの転落事故防止」の啓発を目的としたPTA主催のティッシュ配付活動が始まった。この活動の積み重ねや、市内の小学校児童による構内放送の取り組みの事例を参考に、本校でも子ども達の声での構内放送の取り組みを行いたいことを平塚駅に申し入れ、平成31年2月より平塚駅東口、コンコース内での放送が始まった。

 

<放送原稿>(音声にリンク)(WAV:5,567KB)

 平塚盲学校からのお願いです。

 私たちは、黄色い点字ブロックをたよりに歩いています。

 まよっていたり、あぶない様子を見かけたら、声かけをお願いします。

 ホームでの転落事故防止のために、皆さまのご理解・ご協力をお願いします。

 これらの取り組みは令和元年9月27日付の読売新聞「教育ルネサンス」で取り上げられ、その後NHKのニュース等でも紹介された。最近では他県の盲学校からも問合せがある等、全国的な広がりがみられるようになってきている。

 

【エピソード ⅩⅡ】〈学校名がバス停に!〉

  学校の正門から20mほど西よりの南側歩道上に、新しいバス停「平塚盲学校前」が設置され、神奈中バス 平塚99系統「平塚盲学校循環」が平成27(2015)年3月30日(月)から運行開始した。安全な登下校を求める声に答えて、同じ平塚駅北口7番バス乗り場から、7時台3便、8時台1便の計4便、登校時間帯のみですが、運行が実現した。直通ではなく、明石町で右折し、ルート上のバス停に停車するので、近隣の平塚ろう学校生と平塚中等教育学校生はもちろん、一般の乗客も乗れる。

 「平塚盲学校前」バス停で下車すると道路を横断せずに登校でき、雨の日恒例だったバス待ちの長蛇の列が平塚駅改札まで続くこともなくなり、安全にそしてとても便利になった。

循環バス

 

循環バス

 

【エピソード ⅩⅢ】〈令和とともに校舎強靭化〉

  元号が「平成」から「令和」に変わった年、平成31年(2019)3月末に仮設校舎に引越し、昭和43年に建設された本校舎は、2年がかりで耐震化工事が行われた。

 工事に先立ち、平成30年に旧女子寮を除却し、跡地に仮駐車場設置、グラウンドにはプレハブの仮設校舎が建設された。仮設校舎は、2階建て2棟の建物を南北の渡り廊下がつなぐ構造で、全員が初めての場所で戸惑うことも多くあったが、歩いて確かめながら練習し、角にクッション材をつけたり安全対策はもちろんのこと、曲がり角等の要所にシートを敷いたり、案内表示はPTA役員の方々のご協力を得て作る等、みんなで知恵を出し合い仮設校舎時代を過ごした。

 本校舎は筋交いが入って、大きな地震がきても安心して過ごせるようになった。

 

ミニショベルカーが入っている職員室

ミニショベルカーが入っている職員室  

 

校舎全景写真

体育館  本校舎             仮設校舎           寄宿舎

校舎全景写真(撮影協力 平塚共済病院)